上杉隆 連載コラム 「前略、芝の上から」

2011.08.03


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神田川の闇に消えた
儚いプロへの憧れ……。

  夜の神田川に人工芝のマットを叩く音が反響する。やぶ蚊の大群が襲い、コウモリがその蚊をめがけて飛び交う中、ぼくたちはひたすらボール、いや人工芝を打ち続ける。

「タカシー、アウトサイドから入りすぎてるぞ。それだとスライスだな」

 飛球線上に立ちながら、大ちゃんがスウィングチェックをする。

「おっ、いまのはどう?」

 シュッという軽やかな音ともに、人工芝が少しだけ前に動いた。

「いいんじゃない。完璧だよ」

 本当に完璧なのだろうか。もちろん、練習場でボールすら打てない二人には、打っていない球筋などわかろうはずもない。だが、思いっきりボールを打つことは、新宿の中学生にとってはきわめて難しいことだったのだ。

 なにしろ、イノウエプロの所属する日本テレビゴルフガーデンは、当時、一球あたり40円もする高級ゴルフ練習場である。10球も打てば、小遣いの大半が飛ぶ。いや、そもそも打席代だけで、小遣いの多くが消えてしまう。

 つまり、僕たちは練習場に練習に行くのではなく、大人たちが打つのを見に行っただけなのだ。

「うーん、やっぱりボールを打たないとわからないよな。イノウエさんのあのボール、すごいよな……」

 神田川のそばで、想像上のナイスショットばかりを頭で思い描きながら、二人は毎晩のように人工芝を叩いていた。

 ある夜のこと。いつものように二人でやぶ蚊の中の練習をしていると、街灯の向こうの暗闇に人影がみえる。目を凝らそうとした瞬間、影がしゃべった。

「よう、がんばっているな」

 声の主は、イノウエプロではないか。いったいなぜ、こんなところにいるのか?

「練習しているって聞いたんで、様子を見に来たんだよ」

 喫茶店経営の大ちゃんの家は、夜はそのままスナックになっていた。そこにたまたま客としてきていたイノウエプロが僕たちの話を聞いて、遊歩道にやってきたというのがプロ登場の真相だった。

 それにしても、大ちゃんと私の歓喜といったらなかった。なにしろ、すぐに人工芝を叩きながらのレッスンが始まったのだが、ほとんど内容を覚えていない。それほど、当時の僕たちにとってプロへの憧れは強烈だったのだ。

「パーン!」

 イノウエプロが人工芝を叩く音が神田川に響く。まったく音質が違う。やはりゴルフでもロックでも、プロとアマの違いは歴然としているのだ。

「ぜんぜん違ったね」

 イノウエさんが帰ったあと、大ちゃんがぽつりと僕にこうつぶやいた。

 僕たちは、井上さんの素振りに見惚れながらも、どこか不思議な絶望感のような感覚に捉われてしまう。

 まさしくそれこそがコンプレックスなのだ。だが、アライはいまだに気づかないが、それが何であるかは当時の若いふたりには、ほとんど理解することができなかった。

[ 第61回 終わり ]


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