上杉隆 連載コラム 「前略、芝の上から」

2011.05.18


【第50回】
ゴルフは秋の日の雨のように

50img01a
(前回のあらすじ)
本連載は、上杉隆が中学・高校・大学時代をゴルフに夢中に過ごした青春を綴るノンフィクション。先週から、本編の進行をいったんストップし、5月7日に逝去した上杉のヒーロー、セベ・バレステロスの死を悼み、スペシャルバージョンとなっています。

10代だった僕たちにとって、
セベは科学を超越する存在だった。

 「グラシアス、セベ!」

 5月7日、この言葉を合言葉に私は今年一年間をセベのために捧げることに決めた。

 追悼は行動をもって示されなければならない。スマートフォンでセベの死が間違いのない事実であることを確認すると、私はトイレの脇で、ある人物の携帯電話を鳴らした。相手はセベバレステロスGC社長の山本高裕氏である。

「セベが死んだ」

「え? 本当? いつ?」

「いま。速報が流れた」

 次のティショットを打つまでの数十秒間のことだった。ゆっくり話している暇はない。だが、セベのために何かをしたいという気持ちはお互い共通のものとして持っているようだった。

「何かしよう。後で電話する」

 こうして、勝手にセベに感謝する「グラシアス、セベ!」のキャンペーンが生まれたのだ。クラブハウスに戻り、中井学プロらと食事をしながらセベの話題に興じる。次から次へとアイディアが浮かぶ。

「そうだ、スペイン料理をみんなで食べよう」

「セベの映像を見ながら、セベについて語らう夕べを開催しよう」

「セベバレステロスGCでセベ追悼コンペを開こう」

「いや、セベの生まれ故郷スペインのペドレーニャに行って追悼コンペをするべきだ」

 さまざまなアイディアが浮かぶ中、まずはすぐに「実行委員会」を立ち上げることで合意する。

 こうしてセベの死から数時間後には、ユーラシア大陸の反対側の極東の地で、とにかくセベに捧げる何かをすることが決まったのであった。<詳細>

 セベのおかげで、僕ら新宿の少年ゴルファーの考え方は決定的に変わった。

 なにしろ10代半ば、何事にも影響を受けやすい多感な時期である。

セベ・バレステロス
 フェードをかけるにはセットアップの変更だけでは済まなかった。打ったボールがさらに右に曲がるよう、ショットの後にクラブを高らかに頭上に掲げ、ヘッドを大きく右前方に押し出すセベのあのしぐさが何より不可欠になった。

 ドローは逆だ。クローズドスタンスで強打されたボールに、さらにスピンを加えるよう、右肩を上げて左手の甲を地面に向けてヘッドを返す。より大きくボールを曲げる必要のある場合には、クラブヘッドが地面につくほど左腕を捻転させる。

 もちろん打ち放たれたボールが、事後のそうした仕草によってより曲がるということは科学的になんら証明されていない。だが、そんなことはお構いなしである。なにしろ、セベがそうしているのだ。

 当時、僕ら少年ゴルファーにとってのセベは科学を超越する存在であった。セベは少年たちにとっての神であった。セベの動作すべてがバイブルになった。それは、もはや宗教である。そう、僕たちは敬虔なセベの信者だったのだ。

 自由自在に曲芸師のごとくボールを曲げるセベのショットは、一見、誰でも真似できるようにみえた。しかし、もちろん、そんなに上手くいくことはない。セベと同じ打ち方をしたつもりでも、大抵はボールの頭を叩くか、地球を強打するかのどちらかであった。

 そうした失敗にもかかわらず、僕たちは、いや、少なくとも私は、セベになりきりゴルフプレーを続けたものだった。

 セベである以上、ボールが曲がっても一向に構わない。なにしろ、あのセベも気持ちよくボールを曲げているではないか。

 その結果、ボールが林に入れば、それこそ最高の見せ場が待っている。

 ほとんど一本につながった眉毛をへの字にして、困ったような表情を見せながらもセベは神懸かったリカバリーショットでグリーンにボールを運ぶ。

 ロイヤルリザム&セントアンズの駐車場で見せたセベのショットは僕たち少年ゴルファーの脳裏にしっかりと焼きついている。

「箱根山カントリークラブ」(※1)で、そしてまた「サンコーカントリークラブ」(※2)で、アスファルトの道路に転がり出たボールを打つ際に、僕たちはみな同じようにセベ・バレステロスに成りきったものだった。

 コンクリートの多い新宿では、セベほど役に立つゴルファーは存在しなかった。

 ありのままでプレーする――。

 それゆえに、僕たちはアスファルトやコンクリートの上からショットする術をセベから学んだ。失敗もあった。だが、そうした超ベア・グラウンドから、見事にボールをあげたときこそ、私たちは無上の喜びを感じるのであった。

 その代わり、僕たちのゴルフクラブのソールは、例外なく、いつもギザギザに傷ついていたものだった。

 それでも、僕たちはそれぞれが「セベリアーノ・バレステロス」であることを辞めようとしなかった。

※1 上杉たちは、当時、新宿の戸山公園を「箱根山CC」と名付け、“草ゴルフ”をしていた。
※2 上杉たちの通う中学校近くにあった、草ゴルフに適したスーパーの空き地を、そのスーパーの名にちなみ「サンコーCC」と命名していた。

[ 第50回 終わり ]


  • このエントリーをはてなブックマークに追加

運営会社 | プライバシーポリシー