上杉隆 連載コラム 「前略、芝の上から」

2011.04.26


【第48回】
「白洲次郎」になれなくて。

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(前回のあらすじ)
1980年代、大都会・新宿の真ん中で過ごした中学・高校時代をゴルフに捧げたジャーナリスト・上杉隆。大学受験のためにしばしゴルフから離れていた彼は、都留文科大学入学後、持ち前のエネルギーとゴルフ愛で「ゴルフ同好会」を設立する。会の活動がようやく軌道に乗った頃、仲間の提案で出場することになった他大学との対抗戦「高経戦」に向け、合宿を張ることになったが――。

軽井沢で行った夏合宿、
合言葉は「プレーファスト」。

 強化合宿の場所は軽井沢に決まった。実際のところ、その経緯はよくわからない。きっと高原の風に吹かれたかったのだろう。

 思えばその前年は山中湖で合宿が行なわれた。山中湖村平野地区にある「グリーンヒル山中湖」が最初の合宿所だった。これも経緯はわからない。やはり高原の風に吹かれたかったのかもしれない。

 そもそも大学からそれほど遠くない場所でわざわざ合宿をする意味があったのか。なにしろ当時、私の住んでいた山中湖ホテルからその民宿までは目と鼻の先だ。いったい何を求めて合宿が行なわれたのか。

 にもかかわらず、この年の合宿は違った。なにしろ、「高経戦」という大きな目標があるのだ。夏、私たちはそれぞれのクルマに分乗して、一路、軽井沢を目指した。

 合宿地は軽井沢プリンスホテルスケートセンター(※現在は閉鎖・編集部注)である。夏の軽井沢といえば避暑である。当時は、涼風を求めて全国各地から観光客が押し寄せてきていた。

 旧軽井沢界隈、とくに軽井沢銀座は歩くことさえ困難に感じられるほどの混雑振りだった。そうした場所にある宿泊施設は、一泊で半期の授業料が支払えるほどの高額であることは間違いなかった。よって、私たちは、夏の間は閑散としているスケートセンターを宿泊所に選んだのだった。

「プレーはできるだけ早くお願いします」

 合宿の練習コースは晴山ゴルフ場である。軽井沢では珍しい完全パブリック制のゴルフ場で、学生にも廉価で開放しているところが魅力的だった。スタート前、部員全員の前で最終的なマナー講習を開いている部長の私の横で、コース従業員がささやく。私は自信をもって頷き、「大丈夫です」と答え、講習を続けた。

「みんな『プレーファスト』でいこう。ここは軽井沢、白洲次郎もみているはずだ」

 きっと、大半の部員が私の言葉の意味を理解できなかったに違いない。それでも私は余裕を見せていた。

「ダブルパーを打ったらピックアップ、グリーン以外は走る」。

 この特別ルールで乗り切れると踏んでいたのだ。

 だが、私は甘く見ていた。なにしろ部員の大半は、この合宿こそがゴルフ場へのデビューであったのだ。


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