上杉隆 連載コラム 「前略、芝の上から」

2011.01.18


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高校の卒業式が近づく……
社会の現実に直面する時期がやってきた。

 さすがに赤羽ゴルフ倶楽部の河川敷での2ラウンドの後は、私たち少年ゴルファーといえども無口になった。

 疲れがピークに達し、歩いているだけで脚が攣ってしまう。手引きカート代500円を節約するために担いでいたキャディバッグが肩に食い込み、皮が剥けはじめるのも、やはりこの頃だ。

 それでも、私たちたちはボールを打ち続けた。

「もう、ハーフ、行こうよ!」

 大ちゃんがそう宣言すれば、誰も拒否しない。そう、私たちはその程度でゴルフをやめるわけにはいかなかったのだ。なにしろ、次にラウンドできるのはいつか分からない――。

 そうやって中学、高校とゴルフに恋し続けた私たちにも、ついに社会の現実に直面する時期がやってきた。

 高校の卒業式が近づき、さらにバラバラの進路を歩むことになったのである。

 高校に入って最初にゴルフから遠ざかったのは鈴っちゃんだった。新宿・歌舞伎町の料理屋でのアルバイトのため、いち早く私たちの世界から抜けたのだった。

 大学浪人を決めたエテパンは受験勉強と予備校通いのため、一切ゴルフから足を洗った。

 高校時代、いち早く自分のクルマを持ったヨデブも、じきにゴルフよりもドライブの方が楽しいことを知る。そう、まだ10代、ゴルフと同時に異性にも恋する青春時代だったのだ。

 高校ゴルフ部に所属していたイワオも、就職活動のため、事実上プレーを中断していた。いや、もしかしてイワオだけは父親と一緒にラウンドをしていたかもしれない。ただ、少なくともそれを私たちに話すことはなかった。

 そして私は、渋谷でのフリーター生活の後、夜の仲間から離れて勉強するため、単身、九州の祖母の家に転じたため、ゴルフどころではなくなった。

 こうして、それぞれが、ゴルフから遠ざかっていった。

 ただひとり、中学卒業と同時にゴルフの道を歩んだ大ちゃんだけが、引き続きルーデンスカントリークラブで夢を追い続けることになったのである。

 80年代、新宿でゴルフに興じた私たち6人の少年は、「箱根山CC」や「サンコーGC」、あるいは「新宿パターGC」という劣悪な環境の中でいつも戦ってきた。

 それぞれがライバルであり、誰もがいつかは自分こそがプロゴルファーになるんだ、という夢を心に抱いていた。だが、それを口に出す者は一人もいなかった。

 私たちは、ラウンドする度に打ちのめされ、そして、お互いのひどいショットを慰め合うのがやっとだったのだ。

「もう、辞めようかな、ゴルフ」

 こんな愚痴がこぼれたのは一度や二度ではない。私たち少年は、ゴルフを愛しているがゆえに、思い通りにならないゴルフを呪ったのであった。

 だが、多感なその時期、ゴルフというスポーツをしていたこと自体を呪っている者は誰一人いない。

 80年代前半、新宿の中学生の少なくない連中が、暴走族に所属し、夜な夜な爆音をとどろかせ、あるいはまた、高校に行かず、ギャンブルに嵌ったり、歌舞伎町で簡単に手に入るクスリに手を出したりして身を崩していく同級生が多かった中、私たちはゴルフに救われた。今なお刑務所と娑婆を行き来する彼らと比べれば、私たちはきわめて幸福だったのだ。

 確かに、ゴルフに溺れ、勉学の時間を無駄にしたかもしれないが、そこから学んだものは、その後の私たちの人生にとって決して無駄にはなかったからと信じる。

 だからだろうか、18歳、ゴルフを辞めたはずの私たちは、結局それぞれゴルフの世界に戻っていくのだ。

 中断時期には各々で時間差はあったが、結局みんなゴルフを忘れられなかったのだ。

 何を隠そう、最初にゴルフの世界に戻ったのは、私自身であった。

 大学入学直後、1年のブランクを経て、再び、私のゴルフ熱は上昇していく。

[ 第38回 終わり ]


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