上杉隆 連載コラム 「前略、芝の上から」

2010.12.15


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新宿伊勢丹デパートに飾ってあった
ホンマのNEWクラブに憧れた。

 初めて自分のクラブを握ったのは17歳の春のことだった。

 それまでは、自らのクラブを持たないジュニアゴルファーのひとりだった。1980年代当時、それは決して珍しいことではなかった。

 なにしろ親がゴルフをやる家庭では、親のクラブを借りることが当然であったし、そうでない家庭は友人から借りてゴルフをするのが当たり前の時代だったのだ。

 自前のゴルフクラブを持つようなジュニアゴルファーは一握りの恵まれた環境に存在していたに過ぎない。

 私たち新宿の少年ゴルファーの中では、最初、イワオだけがそうした環境にあった。次に自分のクラブを手に入れたのはヨデブ、それ以外の少年たちは結局中学卒業まで、誰一人自分のクラブを持つことができなかった。

 ラウンドではイワオかヨデブ、あるいは大ちゃんかヨデブの母親のクラブを借りることが多かった。ジュニア大会に最初に出場した時ですら、私はイワオから借りたクラブでラウンドしたものだった。

 中学校近くの新宿伊勢丹デパートに行く度に、私はスポーツ用品を扱う6階フロアーに向かい、日長、買いもしないのにゴルフクラブを眺めていた。

 ホンマ、マグレガー、ミズノ、パワービルト、ベンホーガン……、各種メーカーが競うように新製品を発売している。だが、6桁の数字の並ぶそうしたクラブが、私の手に握られることは永遠にないと思っていた。

 そして高校生になり、落合ゴルフ練習場でアルバイトを始めると、お客さんの捨てていったクラブヘッドを拾ったり、所属の加藤プロからシャフトを譲り受けながら、手製のクラブセットを作っていくのだった。

 めちゃくちゃな各クラブのバランスは、自動車部品会社を経営していたイワオの実家に行って、万力などの工具を駆使しながら、どうにかその手で修繕していったものだった。

 ゴルフショップで買えるものといえば、せいぜい安物のグリップか重り程度である。それを持ってイワオの家に行き、私たちはオイル塗れになりながら、自分の中古クラブを改造したものだった。

 ある日、伊勢丹に行くと、当時のジュニアの憧れであるホンマのフルセットが販売していたのだ。しかも新製品にもかかわらず数字は5桁しか並んでいない。当時としては破格の値段であった。

 私の当面の夢は決まった。その新製品のクラブをなんとか手に入れることが目標となったのだ。

 一年後、アルバイトで貯めた、予定額を少しばかり上回る「聖徳太子」(一万円札)を握って、私は伊勢丹を訪れた。ところが、その時には、すでにそのホンマのクラブは販売中止になっていたのであった。

 さらにその後数カ月間、私は悩みに悩んで、結局ミズノの「ダン ブレイバー」というクラブを買った。

 正直、まったく聞いたことのないクラブだったが、「軟鉄鍛造」ぽい感じのフェイスが私の心を捉えた。

 なにより、これでゴルフの前の晩に、友人の家を訪ね歩くことが不要になったことがうれしかった。

 思えば、中学時代、近所のあまり親しくないおじさんにクラブを借りにいったこともあった。深夜2時、翌日のゴルフのために大ちゃんの家に自転車を走らせたこともあった。

「えー、もう、エテパンに貸しちゃったよ」

 大ちゃんが答える。そうなると、今度の目的地はヨデブの家である。

 しかし、いよいよ、自らのクラブを手に入れたことで、私は前夜のそうした苦労から解放されるのだ。

 しかし、そのフルセットのクラブが使われることはほとんどなかった。なぜなら、ゴルフのラウンドをする資金がそもそも底をついていたからだった。

 私の軟鉄鍛造のアイアン、とくにロングアイアンは、ほとんど使われぬまま、錆びが出はじめていた。

[ 第35回 終わり ]


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