上杉隆 連載コラム 「前略、芝の上から」

2010.11.02


【第29回】
世界でいちばんきれいなスウィング

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(前回のあらすじ)
1980年代、現在ジャーナリストとして活躍する上杉隆は、ゴルフに夢中なひとりの高校生だった。放課後も、授業中もゴルフのことで頭がいっぱいの彼は、大ちゃん、イワオ、鈴っちゃん、ヨデブ。エテパンといった中学時代からの「ゴルフ仲間」たちと、日々ゴルフ談義に花を咲かせる日々を送っていた。これは、大都会新宿を舞台にした、5人の高校生を中心とした「青春ゴルフノンフィクション」だ――。

羽田からロサンゼルスへの機内、
一冊のゴルフ戦記に惹き込まれた。

 「ザ・ゴルフマッチ」が止まらない。  米国ロサンゼルス行きの全日空1006便に乗り込んだ私は、迫り来る原稿の締め切りもそっちのけで、伝説的な「ゴルフ戦記」を読み更けていた。

 羽田空港国際化の第一便はちょうど0時0分発の夜間飛行である。ターミナルでのセレモニーの中、私は偶然会った知己のカメラマンと2、3の言葉を交わして、真新しいボーイング777型機に乗り込んだ。

 2010年、米国政府はスペースシャトルの運航を終了させる。11月、最後のシャトルとなるディスカバリー号の打ち上げを見るため、私は、フロリダ州ケープカナバル近くのケネディスペースセンターを目指していた。

 当初、機内では、NASA関連の資料を読み込む予定であった。だが、離陸時にふと手にしたあのマーク・フロストの作品が、私のフライト中の予定を大いに狂わせたのだった。

 水平飛行になればいつもは手の伸びるパソコンも電源すら入らない状態が続いた。ほんの数ページだけだと思ってページを捲ったのが運のつきだった。

 結局、太平洋を越える間中、私は半世紀以上も前に繰り広げられた4人のゴルファーたちの「奇跡の戦い」の物語に惹き込まれてしまったのだ。

 約五ヶ月前、私はその舞台であるカリフォルニア州のモントレー半島で夢のような一週間を過ごしたものだった。

 写真家の野村誠一氏とともに、週刊ゴルフダイジェストとモントレー観光協会の厚意により、ぺブルビーチリゾートのゴルフ場を転戦する幸運に恵まれたのだった。

 スパイグラス・ヒルズ、スパニッシュ・ベイ・リンクス、デルモンテなどの伝統的なコースでラウンドし、全米オープンの開催されていたぺブルビーチゴルフリンクスも、取材ではあったものの嫌というほど歩き回ることができた。
ザ・ゴルフマッチ サイプレス・ポイントの奇跡

 おかげで「ザ・ゴルフマッチ」を読みながらモントレー半島のゴルフ場への郷愁のような気分が沸き起こり、シートをリクライニングさせることも忘れて熱中したのだった。

 だが、今年の夏、唯一、「ザ・ゴルフマッチ」の舞台であったサイプレス・ポイントだけは、その特別な閉鎖性から一歩たりとも足を踏み入れるすらできなかった。わずかに、セブンティ・マイル・ドライブという周回道路から、その幻のゴルフコースを眺めるだけに留まったのである。

 その50年以上前の1956年1月10日午前10時、そのコースに参集したのはベン・ホーガンとバイロン・ネルソンという当代随一の伝説のプロと、ハービー・ウォードとケン・ベンチュリーという最強のアマの4人であった。この奇跡の組み合わせで、アマとプロに分かれながらのベストボールを競い合うマッチプレー方式の対抗戦は、密かに行われたにも係わらず、5000人のギャラリーを集めたという。

 ホーガンとネルソン、そこにケン・ベンチュリーというメジャーチャンピオンが加わったのだ。それも当然だろう。彼らはまさしく、私たち新宿の少年ゴルファーが、伝説化していたゴルファーそのものであった。

 時は1980年代、当時の日本の少年ゴルファーたちの多くはベン・ホーガンの「モダンゴルフ」で育った。まだデビッド・レッドベターも、ブッチ・ハーモンもゴルフレッスンの世界では無名にすぎなかった。

 私たち少年ゴルファーにとっての「教科書」といえばベン・ホーガンの「モダンゴルフ」であり、「聖書」といえばボビージョーンズの「ダウン・ザ・フェアウェイ」以外に考えられなかった。

 テレビでは、東京12チャンネル(現テレビ東京)で毎週放映していたゲーリー・ワイレン博士やボブ・トスキのレッスン番組がある程度だった。

 それ以外は、雑誌の連続写真だけが私たちの頼れるレッスン書であった。

「週刊ゴルフダイジェスト」や「パーゴルフ」、「アサヒゴルフ」(後に廃刊)などの巻頭に掲載されるプロの連続写真を見ながら、私たちはプロのスウィングをしきりに真似したものだった。


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