上杉隆 連載コラム 「前略、芝の上から」
2010.10.12
【第26回】
「PLAY FAST!」と括約筋
(前回のあらすじ)
権力を監視し、メディアの不当な既得権に鋭くメスを入れる気鋭のジャーナリスト・上杉隆は、1980年代、ゴルフに夢中なひとりの高校生だった。運動神経抜群で、ゴルフ場で研修生として働く「大ちゃん」、ゴルフに関する知識なら誰にも負けない「鈴っちゃん」、都会的な雰囲気の「ヨデブ」そして「イワオ」に「エテパン」……。大都会新宿に暮らす5人の高校生を中心にした、これは“青春ゴルフノンフィクション”だ――。
イラクの戦地取材に向かう途中、
チュニジアで列車事故に遭った。
腰が重くなり、ひざが笑い出す。左脚は棒のように固くなり、ラフの少し伸びた芝程度に足が取られてしまう。
グリーン前の傾斜は"心臓破り"の丘となり、パターを杖替わりにしてようやく前に進むといった具合だ。
10月の最初の3連休、旧軽井沢ゴルフクラブの高原の風に誘われた私は、ジュニア時代の友人・勝田俊也らとともに久しぶりに36ホールのラウンドに挑戦した。
前半の18ホール、普段ならば棒のように硬くなる左脚と左腰。だが、途中ストレッチを繰り返しながらのラウンドだったからであろう、どうにか無事後半のスタートを切ることができた。
実は、2003年12月、私はイラクへの戦地取材に向かう直前、チュニジアのガフサで列車事故に遭い、左骨盤の粉砕骨折、脛骨高原骨折などで重傷を負ったのだった。
直後、搬送されたパリでは、数回にわたる手術を行い、入院ののち一年ほどのリハビリ生活を余儀なくされていた。
驚くべきことに、その間、私はゴルフコースに行くことはおろか、愛するゴルフから一切断絶された生活をも余儀なくされていたのだった。
「ゴルフはできるようになるのか?」
事故直後、意識の薄らぐ中で、私は英語でそう救急医に尋ねたという。また、担当執刀医のカサノバ外科医にも、「ゴルフができるようにしてほしい」という「遺言」を残して手術室に運ばれたという。
ゴルフを再開する目標があったからこそ、私は厳しいリハビリにも耐えられたのだ。それでも、結局、2年ほどゴルフを休止する羽目になった。
そして、軽井沢や箱根などの馴染みのコースで、恐る恐るリハビリ代わりのゴルフを再開させる。その後、ようやくカートを使わずに18ホールを徒歩でラウンドできるようになったのが、実は、ここ1、2年のことである。
その事故以来、私は、左サイドに自動的に内蔵されたチタンのおかげで、スウィングの際に、強固な自然の壁を作ることができるようになったと信じていた。
だが、それは当然ながら間違いであった。飛距離は以前と比べて格段に落ちて、スウィング自体も大きく変更せざるを得なくなったのだ。
突っ張った左脚が、あたかもカーティス・ストレンジか、マーク・オメーラのような左脚を硬直させたようにみえるフィニッシュを余儀なくさせた。もちろん彼らのスウィングは硬直していない。だが、私のそれは明らかに筋肉の可動域が減少し、柔軟さに欠けるぎこちないスウィングになっていた。
しかも、ホールを重ねるごとに疲れが蓄積し、その不自然な動きはますます加速され、仕舞いにはリー・トレビノのようなフィニッシュになっていくのだった。
もはや、ジュニア時代にトム・ワトソンやグレッグ・ノーマンを勝手にイメージしていたダイナミックなスウィングは望むべくもなくなってしまった。
やはり、チタンは人体ではなく、ゴルフクラブに使用されるべきものなのだ。
私の中の人体内蔵チタンは、筋肉の可動域を限定させ、神経に慢性的な痺れをもたらす。実際、私は毎日24時間、そうした痛みと戦うことを余儀なくされている。
歩いている時も、寝ている時も、原稿を書く際も、取材をしている際も、そしてゴルフをしている時でも、左脚の痺れは消えない。
最後にそれは、鈍痛と深痛に変わり、体力と精神力を消耗させるのであった。