上杉隆 連載コラム 「前略、芝の上から」

2010.09.21


【第23回】
夢と幻想の川奈ホテルゴルフコース

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(前回のあらすじ)
1980年代、気鋭のジャーナリスト・上杉隆はゴルフに夢中なひとりの高校生だった。運動神経抜群で、ゴルフ場で研修生として働く「大ちゃん」、ゴルフに関する知識なら誰にも負けない「鈴っちゃん」、もっとも都会的な雰囲気を持つ「ヨデブ」そして「イワオ」に「エテパン」……。大都会新宿に暮らす5人の高校生を中心にした、これは“青春ゴルフノンフィクション”だ――。

テレビで何度も見た憧れの
富士コースにやってきた。

 「東の川奈、西の廣野――」

 日本の名門ゴルフコースと言えば、まず頭に浮かぶのがこの二つだ。

 とくに戦前から数多くのトーナメントを開催し、多くのトッププロを輩出した川奈ホテルゴルフコースは、一種の憧憬とともに語られることが少なくない。

 フジサンケイクラシック(当時)の会場として、何度、テレビで見たことだろう。とくに左に相模湾を見下ろす、富士コース15番のロングホールははっきりと記憶に刻まれている。

 このホールでのジャンボ尾崎の3連続OBは、尾崎の表情とともにいまだに瞼に焼き付いている。いつか自分がそこに立つことになった暁には、果敢に攻めてバーディを奪ってやろうと少年の夢想を働かせたものだった。

 昨年、「チョイス」のインタビューで陳清波プロに川奈での修行時代の思い出話を聞いてから、私の中ではますます「川奈」に対するそうした憧憬が膨らんでいった。

 そしていま、ついに私は、その憧れの地に立っている。

 これから二日間、川奈ホテルに泊まり、大島コースと富士コースをラウンドする。あまりの嬉しさに立つだけでは飽きたらず、逆立ちをしたいくらいだ。そう、実際、私はいま、大島コースの10番ホールで逆立ちをしている。 大島コースの10番ホール

 昭和3年開場の大島コースは、セルフプレーも可能な海沿いの難関コースである。とはいえ、キャディなしでは、初めてラウンドする者にはあまりに厳しい現実に直面することになるだろう。案の定、川奈ゴルフ特有の高麗グリーンが私を苦しめた。

 だが、天候は良好だ。空は青く、芝も青い。松の木陰に涼風が走り、崖下から潮風が心地よく吹きつける。快調にカートを飛ばし、フェアウェイまで立ち入りできるという点で、大島コースでのラウンドは間違いなく「極楽ゴルフ」であった。

 だが、富士コースは違った。強烈な高低差のフェアウェイをすべて歩いてラウンドしなければならない。普通のゴルファーとしては当然のことだが、じつは、左腰と脚にチタンを埋め込み、長い歩行の困難な私にとってそれは、「地獄の行軍」にも近い一大事となる。

 案の定、後半に入ると、左脚全体が鉛のように重くなり出し、痛みがピークに達した。

「なんとか、あのホールだけは……」

 クラブを杖替わりに、私は川奈の海風の中を歩きつづけた――。

 足腰は重要だ。高校生になった私は、何よりも足腰を鍛えることを生活の中心に置いていた。

 入学直後は自転車で通学していた。早稲田の実家から高校のある広尾まで片道約8キロメートルの道のり、スポーツサイクルから、あえてギアの重いママチャリに乗り換えるほどの気合の入れようだった。

 しばらくすると、足腰鍛錬は、夜のランニングに変わった。毎晩、バイト先まで走ることを日課とした。気分は合宿を張って走り込みを行う尾崎兄弟であった。

 その後、本格的に陸上部に入った。入部の理由は単純明快であった。すなわち、母校の都立広尾高校には、ゴルフ部がなかったのである。

 陸上部ならば、とにかく走ればいいのだろう、そんな単純な発想から入部し、個人練習で済む長距離選手の道を選んだ。

 部活の個人主義は正しかった。だが、高校の陸上部は大方の学校でそうであるように、虐げられていたのだった。

 改装されたばかりの体育館でも、サッカー部や野球部のそれが日の当たる一等地にあるのと違って、陸上部は校舎裏側の一番奥まったひっそりとした場所に割り当てられていたのだった。

 しかも、なぜかその部室の前だけが舗装されずに土がむき出しになっており、目の前には野球部のためのトスバッティング練習用のネットが張られていたのだ。

 だが、その虐げられた環境こそ、皮肉なことに、私にとっては最高の一等地であった。

 練習後、陸上部の先輩や同僚がさっさと部室から引き上げると、私は部室のロッカーの上に隠していたアイアンを取り出す。

 そして、部室前のベア・グラウンドでの入念な素振りから始めたものだった。土に枝で線を書き、そこにヘッドを打ち込む練習を繰り返した。


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