上杉隆 連載コラム 「前略、芝の上から」

2010.08.24


【第19回】
恋か、ゴルフか、それが問題だ!

上杉隆 連載コラム
(前回のあらすじ)
ジャーナリスト・上杉隆。彼は、1980年代、ひとりのゴルフが大好きな高校生ゴルファーだった。「大ちゃん」、「鈴っちゃん」「イワオ」「ヨデブ」「エテパン」「コイック」といった中学時代からのゴルフ仲間たちと上杉は、輝かしい青春の日々を、ゴルフに夢中に、過ごしていた――。

この夏、実家に帰ると、私の肩書は
「スイカジャーナリスト」になっていた。

 スイカの季節である。今年の夏はどこに行ってもスイカ、スイカである。

 私自身のツイッター上でも、タイムラインの大半はスイカで埋め尽くされる。そして、どこを出歩いてもスイカが襲ってくる。

「どうぞ、甘いスイカですよ」

 堀江貴文氏と麻布十番祭りの会場を歩いていると、声を掛けられた。山形県尾花沢産のスイカだという。つい手を伸ばす。甘い。確かに甘い。堀江貴文

「スイカ、お好きなんですよね」

 インタビューのため、大手町のITメディアを訪れたときのことだ。ジャーナリストの相場英雄氏からその手に提げていた大きな袋を渡された。やはり山形県尾花沢産のスイカだという。重い。断然、重い。官房機密費でないことを確認したうえ、遠慮なく頂戴した。

「なに? スイカかい?」

 取材のため、参議院議員の有田芳生氏の携帯に電話をしたときの第一声がこれだ。私はまだ何も話していない。話にならない。結果、何を話すのか忘れてしまった。

「あのスイカ、本当に最高でしたね」

 梨元勝さんの訃報が伝えられた昨夜、その弟子であり、梨元さんに媒酌人までお願いしていた芸能リポーターの井上公造氏とその夫人とご一緒した。恩師の話よりも、まずはスイカの話だ。三人で小一時間、夏の初めに食べた千葉県姉ヶ崎産のスイカの話で盛り上がった。最後に梨元さんの冥福を祈りながら、近々スイカを食べに行く約束をして、別れた。恐縮です。

 この夏、私は至る所でスイカに襲われた。心休まる暇さえない。逃げるようにしてお盆に実家の早稲田に帰った。

「スイカジャーナリストって何?」

 メディアに疎い母親が突然、聞いてくる。

「近所の○○さんが、上杉さん家のタカシ君はスイカジャーナリストだからねって、スイカをくれたのよ」

 最後の砦、新宿までもが攻められている。もはや、私に逃げ場は無い。新宿も安全地帯ではないのだ。

 当時、その新宿はまさしく危険な「不夜城」であった。

 終電を過ぎるころから歌舞伎町は活気に包まれ、人波は減るどころか道を埋め尽くすかのようになっていく。区役所通りはタクシーとリムジンの渋滞でビクとも動かない。

 まだ新風営法の施行前である。午前0時を回る頃に開店する店も少なくなかった。とくにさくら通りは眩しかった。風俗店のネオンが煌々と輝き、小学生だろうが、中学生だろうが、そこを通れば声を掛けられるのは必至であった。

 私たち少年ゴルファーはそんな場所で育った。中学校は歓楽街の目と鼻の先である。学校や自宅から西新宿のその「目的地」に向かうには、歌舞伎町か、百人町のラブホテル街を突き抜けるのがもっとも近道だったのだ。

 高校生になると、中学同級生の何人かがその街で働きだした。「鈴っちゃん」は料亭で、「コイック」は遊興産業界で働き出した。

 それでも当初は、放課後や始業前、それぞれ自転車や原付バイクを駆って、あるいは徒歩で「目的地」である新宿住友ビル直下の三角広場を目指した。

 三々五々、新宿パター(当時、「有賀園ゴルフ」が都会のサラリーマンのために作った無料のパッティング練習グリーンを勝手に命名したもの、編集部注)に集まってくる。夏の陽射しが人工芝で照り返っている。立っているだけで汗が吹き出す。しかも、高層ビルの銀色の壁に反射した太陽光が、少年たちの目を眩ませる。

 それでも、私たちはゴルフを愛していた。吹き出す汗をものともせず、戦いを開始したものだった。

 その都度、「設計される」ホールはすべてパー2。最初のロングパットを入れない限り、バーディはない。平均で20メートルほど、パーですら決して簡単ではなかった。

 人工芝特有のボールの転がりは私たちを苦しめた。なにしろグリーンは速かった。風が吹けばもっと速い。そして、新宿パターには大抵、ビル風が吹きつけたものだった。私たちは取り付かれたようにその新宿パターに通ったものだった。


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