上杉隆 連載コラム 「前略、芝の上から」

2010.07.27


【第16回】
嗚呼!恋の湘南ゴルフ・リンクス

上杉隆 連載コラム
(前回のあらすじ)
時はバブル前夜の1980年代、ジャーナリスト・上杉隆と「大ちゃん」「ヨデブ」「イワオ」「エテパン」「鈴っちゃん」といった個性的な仲間たちは、大都会・新宿に暮らすゴルフに夢中な高校生だった。勉強より、ゴルフ。デートより、練習場でのアルバイト。これは、脳内をゴルフに占領された少年たちの、青春ゴルフノンフィクションだ――。

鵠沼海岸、七里ガ浜、由比ガ浜……
高3の思い出に彩られた湘南の海。

 夏の日、サザンオールスターズを聴きながら、国道134号線を走る。窓の左の佐島の先に相模湾を見ながら、三浦海岸から海沿いを北上する。

「海の家」でもらったばかりのスイカが助手席の足元で揺れている。スイカ割りの生け贄となるところを、私が辛うじて救ってやったのだ。長者ヶ崎前の「ホテル音羽の森」を通過し、葉山御用邸前に至る道、この日のドライブの「相棒」は助けてやったばかりのそのスイカだけである。

「げんべい」でビーチサンダルを物色して、葉山マリーナの前を過ぎれば、まもなく逗子海岸に至るだろう。その前に、久しぶりにマリーナに寄ってもいい。日影茶屋で紅茶を愉しんでもいい。確か、このあたりにはプリンの美味い「マーロウ」もあったはずだ。そういえば、渚橋脇の「逗子デニ」は閉店してもうないという。

 そんなことを考えながら、私は青春時代に幾度も通ったこの海を眺めていた。

 時は流れ、私は確実に歳を取った。ひとり、いや、助手席のスイカと一緒に感傷に浸りながらハンドルを切る。

 森戸神社が見えてきた。湘南の青い空と海に、沖合いに建つ赤い鳥居が映える。懐かしい。葉山といえば海水浴だ。狭い国道沿いを家族連れが浮き輪を持ってひっきりなしに通り過ぎて行く。典型的な夏の光景、だが、私にとって、その場所は別の思い出で彩られている。

 高校3年生、免許を取ったばかりの「ヨデブ」の親のクルマ、シルバーの「ジャガーXJ」に乗って、私たちジュニアゴルファーは「遠征」を繰り返すようになっていた。なにしろ、湘南は天然の「ゴルフリンクス」に恵まれていた。

 鵠沼海岸、七里ガ浜、由比ガ浜、材木座海岸、中でも「ぺブルビーチ」のような美しい景色を持つ一色海岸、森戸海岸の「ゴルフリンクス」は格別の場所だった。

 目の前に相模湾が広がる。夏は渋滞で動かなくなる134号線も、春や秋、とくに冬になればめっきり人も減る。サーファーや犬の散歩をする地元住人、そして私たち少年ゴルファーの姿くらいしか認められず、クラブを振り回す危険も減少したのだった。

 まだ「裕次郎灯台」も建っていなかった1980年代、人の少ない森戸・一色海岸一帯は、私たちにとって最高の「ゴルフリンクス」だった。

 現在「裕次郎碑」の建っている駐車場脇の僅かな芝生を見つけて、私たちは短いショットを繰り返したものだった。ボールが砂浜に落ちると、堤防の上に戻るまで困難なバンカーショットを繰り返す。波にボールをさらわれる前に慌ててショットし、かえってシャンクやトップを出して、岩礁の間に消えることもあった。

 一色海岸でのショットはなにより緊張を強いられた。バンカーショットのミスは一大事につながる。仮に「ホームラン」でもしてしまったら、取り返しがつかない。ボールは警備用の柵を越えて、きっと御用邸の庭まで飛んでいってしまうだろう。

 さすがに私たち少年ゴルファーとはいえ、そうした「不敬罪」を恐れた。それゆえ、どちらかというと森戸神社への「不敬」を働く道を選ぶことになったのだった。

 なんといってもエキサイティングだったのは、その森戸神社横の芝生から放つショットだった。森戸川を越えて、森戸の砂浜に打ち下ろす「海越え」のホール、そこでは決してミスは許されなかった。

 係留中のクルーザーにぶつけることが問題なのではない。貴重なボールが海の藻屑となって失われることを、私たちは何よりも恐れたのだった。

 傾いた太陽が西の空と水平線、そして、沖合いの赤い鳥居をも同化する。江ノ島の灯台に明かりが点り、空の向こうの富士山の山体が藍色に変わる。波打ち際のボールも見えなくなってくると、そろそろ「トーナメント」も終わりの時刻だ。その時こそが、私たちの「ぺブルビーチ」のもっとも美しい時間帯でもある。


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