上杉隆 連載コラム 「前略、芝の上から」

2010.06.08


【第9回】
中学生がゴルフ場を作る方法【前】

前略芝の上から
(前回のあらすじ)
 約四半世紀前、ジャーナリスト・上杉隆と5人の仲間は、大都会に暮らすゴルフに夢中な中学生だった。街中の空いたスペースでクラブを振り、白球を追う青春を送っていた彼らに、ある日転機が訪れる。新宿・戸山公園をゴルフ場に見立てた彼らのホームコース、"箱根山CC"が突然、工事により封鎖されてしまったのだ――。

突然、ホームコースを奪われた僕らは
新しい候補地探しに奔走した。

 長年住み慣れた「家」を失うことほど切ないものはない。どんなに劣悪な環境であろうと、やはり「住めば都――」、自然、愛着も湧いてくるというものである。

 なにしろ、済州島のヒヨドリを見て望郷の念に駆られ、首相の座を捨てて田園調布の自宅に帰ってしまう政治家の例もある。「家」を愛する気持ちには、金持ちも、権力者も関係ないのである。

 ゴルフも同じだ。仮に、自身のホームコースが失われれば、深い悲しみに襲われるのは全ゴルファーにとって共通の感覚である。たとえそこが美しいオーガスタナショナルGCでなくても……。いやむしろ、ホームコースがお粗末であればあるほど、他人にはわからない愛情も生まれるというものだろう。

 あの日、私たちは突然にホームコースを失った。その驚きと深い悲しみは、鳩山元首相であるならば、きっとわかっていただけるだろう。

「箱根山CC」を失った少年たちだが、絶望するにはあまりにも若すぎた。途方に暮れたり、感傷に浸っているほどの大人ではなかったし、そもそも6人ともそんな程度のことでゴルフを中断するほどヤワではなかったのである。あきらめないことこそ、新宿で生きる中学生ゴルファーの特質だったのである。

 私たちは、立ち入り禁止の工事用看板の前で30秒ほど立ち尽くすと、躊躇することなく、とはいえ、注意深くその柵を乗り越えた。そして、重機の入っていない場所を探そうと、クラブを握って未着工エリアに向かおうとしたまさにその瞬間のことだった。

「こらっー」

 遠くの作業服の大人たちが怒鳴りながらこちらに向かって走ってくるのが見える。

 ゴルフ場で大声を出すというような野蛮な行為、しかも、相手の服装は紳士のスポーツにあるまじき作業着である。本来ならばそうした重大な「マナー違反」こそ問われるべき行為であろう。だが、この世の中は必ずしも「ゴルファー」の都合だけで物事が成立しているのではないことは、幼稚な私たちでも十分理解していた。

 よって、地面に着地したばかりの私たちは、再び同じ柵を今度は逆方向に乗り越えて、一目散に逃げ出したのだった。

 こうして私たちのゴルフの「聖地」は永遠に失われた。

 だが、少年たちは、すぐに新しいゴルフ場探しに取り掛かる。目星をつけていた「新天地」はどれも中学校の近く、徒歩か、自転車で通える場所にあった。

 中学校から3キロほどの場所にあった代々木公園はその広さといい、芝生の状態といい、まさしく最高のホームコース候補であった。夜中に忍び込んでボールを打ったことがあったが、すぐに見回りの警備員の餌食となった。当時から管理人の目が厳しく、結局、ゴルフクラブを振り回すような環境にはなかったのである。

 高田馬場の線路沿いにある西戸山公園は、全体が裸地であり、木々も生い茂り難しいショットを要求されることが必至だった。なにより、公園で寝起きする「ギャラリー(浮浪者)」の数が多く、ボールを転がしただけでトラブルになることは容易に想像できた。

 中学校から1キロ弱、歌舞伎町のほど近くには人工芝の広がる日本テレビゴルフガーデンがあった。当時、西城秀樹などの芸能人もよく練習しに来ていたその練習場は、ゴルフをするという点では見事なホームコースになる可能性があった。しかし、営業中は当然のこと、夜中でさえも警備員が巡回に回り、そもそも忍び込むことすら不可能であった。

 ホームコースになるような候補地はもはや存在しないように思われた。

 早朝、母校(戸塚第一中学校)の校庭に忍び込んだことがある。ピッチングウェッジならばある程度のショットは可能だったが、ただ打つだけのゴルフに私たちはすでに何の魅力も感じなくなっていた。

 そう、ゴルフには困難がつきもので、それを克服することこそ、そのスポーツの真髄だと当時の少年ゴルファーたちは信じ切っていたのだった。実際、私たちは、ショットのみならず、コース探しでもそうした困難にぶち当たっていた。


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