名手・達人の言葉

2005.06.22

白洲次郎は戦後、
時の首相吉田茂に請われて現在の日本の原型をつくった人として知られる。
17歳で英国・ケンブリッジ大学へ留学。不良で日本を放逐され、本人の弁によれば『島流し』に遭い、多感な時代をイギリスで過ごす。
愛車ベントレーで終生の友となる伯爵と、ジブラルタルを目指す欧州大陸横断などを決行し、オイリー・ボーイとして鳴らしたという。
このイギリスで過ごした経験を生かし、占領国米国GHQを相手に、対等な交渉をする、タフ・エゴシネーターぶりを発揮。日本国憲法の誕生に立ち合うことになった。


ゴルフは14歳のときに3ヶ月だけやり、英国留学時代はやらなかったという。
理由は「モテないから」。
本格的にやり始めたのは28歳から。ハンディ2までなっている。そして50歳の時、軽井沢ゴルフ倶楽部の理事に、74歳で常任理事に就任。
この時、倶楽部方針の第一義に掲げたのが、この「PLAY FAST」だった。ビジターを制限し、メンバーはみな平等、が口癖でマナーを徹底させた。


コースの夕暮れ、18番ホールを見下ろす椅子に腰かけ、スロープレーヤーを見かけると、どんな偉い人にでも面と向かって注意したという。
白洲はプリンシプル(原則)を主義としたが、このプレイ・ファーストにはゴルフのそれが貫かれているのである。

 

■白洲次郎
しらす・じろう/1902~1985。
1902年、兵庫県芦屋の大富豪の家系に生まれる。17歳で英国ケンブリッジ大学へ留学。家業倒産のため26歳で帰国。35歳で近衛文麿内閣の政策ブレーンをつとめたが、38歳で鶴川村へ「武相荘」を建て、農業をやるといって隠棲する。43歳で吉田茂に請われ「終戦連絡中央委員会」参与に就任。GHQと憲法制定を巡って渡り合う。46歳、初代貿易庁長官に就任、通産省誕生の立役者となる。その後東北電力会長となり、電力再編の分割民営化に取り組む。50歳、軽井沢ゴルフ倶楽部理事、74歳で常任理事、80歳で理事長に。85歳で死去。遺言は「葬式無用 戒名不用」。夫人は作家・随筆家の故白洲正子。

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